私には、忘れられない笑顔が一つあります。
それは、子供のころに見た同級生の笑顔で、もう四十数年前になるのですが、その笑顔は今でも鮮明に浮かび上がってきます。
5年生か6年生の時の話です。何年生の時かすら明確ではないのですから、話の前後関係など全くあてになりませんし、記憶に色付けがされている可能性が高いですが、断片的な記憶を整理して書いてみます。
同級生だったK君には、親しい友人はいなかったと思います。言葉数は少なく、極めておとなしい子でした。給食で残したパンを机の中に入れっぱなしにしてカビらせてしまったりする、いわゆる「鈍くさい子」で、みんなが遠ざけているといった感じでした。自分も同じで、あまり関わりたくないと思っていたと記憶しています。
そんなK君が休みがちになり、「頭痛と嘔吐が繰り返しあって、入院することになった」と知りました。そのことを父(開業医)に話すと「それは脳腫瘍かもな」と。
「脳腫瘍」という言葉の響きや父の反応から、ただ事ではない気配を感じたのでしょうか、その父との会話はどこかの駅のホームで歩きながらであったと記憶に残っています。
父の「診断」は当たりでした。
K君が登校してきた、ある昼休みのことだったと思います。K君も加えて遊ぶことになりました。遠ざける存在であったK君を遊びの輪に受け入れていますから、おそらく、入院が決まっていたK君を励ますよう、担任の先生からの働きかけがあったのでしょう。病名と彼に想定される未来まで知っていたのは、子供の中では私だけだったと思いますが。
その遊びの途中にK君が見せた笑顔、それが今でも鮮明に浮かぶ笑顔です。
本当に楽しそうな表情でした。クラスメートから声を掛けてもらって一緒に遊べることを、心から楽しんでいるという笑顔でした。私のK君の記憶の中には、少しだけ口元を緩める程度の表情変化しかないので、その笑顔はとても新鮮でした。
その後、私はクラスの代表としてお見舞いに行きました。
病室のベッドに座っていたK君は、丸刈りにされていて、その頭には赤いマジックでいくつかの印がされていました。何を話したか、それどころか、ちゃんと声を掛けたかすら、全く覚えていません。親しいわけでもない同級生のお見舞いに代表として出向いた小学生に、気の利いた態度がとれたとは思えません。
ただ、ベッドに座っているK君の光景は記憶にあり、やはりある種の衝撃を受けたのだろうと思います。
不思議なのは、駅のホームでの父との会話のシーンも、お見舞いに行った病室のシーンも、そして参列したお葬式のシーンも、すべて色のない白黒の映像なのに、K君が笑顔を見せた教室前の廊下でのシーンは、まばゆい光に包まれた鮮明なカラーだということです。
人の記憶は、その後の体験の積み重ねや常識的判断、思考などによって加工されますから、凡そ当てになるものではありません。ただインパクトの強かった体験は、その事象の記憶の断片は多くなります。その中で、色や明るさの違いがあることは、本当に不思議です。
父の跡を継いで医者になることは、この頃すでに自分の将来像として思い浮かべていたとは思います。そして今こうして考えてみると、病名を言い当てた父への羨望や、人の将来を予測し、場合によっては介入しえる能力を持つ医師というものへの憧憬は強くなったのかもしれません。
K君の笑顔が、おそらくはある程度加工されたうえで鮮明に思い出されるのは、もしかすると当時の心境の変化や自己の形成に強く影響を及ぼしたからではないかと考えています。