少しネタ切れもあって、更新が滞ってしまいました。コロナウイルスについて私見を述べてもいいのですが、下手なことは言えない風潮でもありますし、これについては騒動が終わったら総括します。

そこで、今回は医療からは離れますが、私の先祖を一人紹介することにします。 紹介するのは、私の父方の曽祖父、片岡春吉(はるきち)です。

春吉は現在の岐阜県大垣市の出身で、20歳の時(明治25年)に片岡家に婿養子に入りました。つまり片岡の苗字は、曾祖母の流れになります。

片岡家は、遅くても江戸時代後期以降、現在の愛知県津島市で「筬孫」(おさまご)の屋号で筬(機織機の一部分)作りを営んでいました。当時、尾張西部では、綿織物の生産が盛んだったようです。春吉も元々筬作りをしており、筬孫の跡取りと見込まれて婿入りしました。

転機は、明治27年に日清戦争に召集されて訪れました。支給された軍絨から毛織物に将来性を感じ、帰国後、当時輸入品が中心だった毛織物の生産を志すようになりました。明治29年に単身上京して東京モスリン紡織株式会社(現在のダイトウボウ株式会社)に見習い職工として入社し、モスリンの製造技術を学びます。

このころ日本も産業革命の影響を受け、機械化が進んできていました。子どもの社会科の勉強を手伝っていて知ったことですが、日本産の綿花(和綿)は繊維の部分が短く、織り込むことが難しく、機械化が進むとともに外国産の綿花に代わっていったそうで、今では自給率0%なのだそうです。もしかすると春吉は、時代の流れから綿織物に限界を感じ、毛織物に賭けたのかもしれません。

津島に戻った春吉は、明治31年に片岡毛織工場を設立しました。これが日本で最初の毛織物工場です。そして明治34年に、モスリンに代わるセル地(和服用織物、セルジス)の開発に成功し、次第に名声を博すようになりました。このころ(明治35年)、私の祖父にあたる弘(ひろむ)が生まれています。
モスリンとかメリンスとかセルとかの違いについては、調べてもよく理解できないのですが、とにかく、それまで輸入品がほとんどで高価だった毛織物が国産で量産できるようになりました。またセルについては和装用として使われたことも大きかったようです。

片岡毛織の成功により、尾西織物同業者の中に綿織物から毛織物に転換する者が出てきますが、春吉は近隣の工場にも毛織物の技術を提供し、地域全体の産業活性化を目指しました。「毛織物業界の父」と呼ばれるようになった理由は、最初に工場を造ったということだけではなく、技術提供や産業全体の発展を志した態度を評価されたのかもしれません。
春吉は大正13年、52歳で鬼籍に入りました。津島市にある天王川公園には、津島毛織工業協同組合により建立された春吉の銅像が建っています。毛織物工業の先駆者として、また尾西地区の産業発展への寄与に対する評価の証なのでしょう。

さて、私の祖父は片岡毛織の取締役にはなったようですが、私が生まれる前に他界しています。問題は何故私の父は急に医学の道を志したのかということです。そのことについて父と話した記憶がありません。父もすでに他界していますので、確認のしようがありません。
春吉は8男5女を儲けており、父はいとこが40人くらいいると言っていましたから、入り込む余地がなかったのかもしれません。もし父が医学の道に逸れてくれなければ、私の人生も変わっていたことでしょう。医者にはなっていない可能性が高いです。

私は尾西地区の中心都市の一宮市で小児期を過ごしましたが、あの頃は近所に毛織物工場がいくつもありました。社会科の教科書にも載っていた地域産業だったのですが、その後毛織物産業は徐々に衰退し、今ではマンションや住宅に変わってしまいました。片岡毛織も2006年に廃業しました。もし父が、そして私が関わることになっていたとすると、今頃私は何をしているのでしょう。

片岡毛織跡地は大型ショッピングセンターになっているようです。ただ、片岡町という住所はいまだに残っています。